(4)一部をもって全體を論じ、誤った結(jié)論を引き出す。フィリピン側(cè)は南中國(guó)海諸島に対して中國(guó)が主権を有することを認(rèn)める他國(guó)の地図はないとした。だが第2次大戦後の他國(guó)の數(shù)多くの地図、百科事典、新聞、雑誌などは南中國(guó)海諸島に対して中國(guó)が主権を有することを認(rèn)めている。これにはかつて中國(guó)の南沙島?礁を侵略?占領(lǐng)したフランスと日本も含まれる。
(5)ひそかにすり替えて騙す。中國(guó)と「歴史」を爭(zhēng)うため、フィリピン側(cè)はベトナムの黃沙、長(zhǎng)沙を中國(guó)の西沙、南沙とごっちゃにし、フィリピン近海の砂浜Panacotを中國(guó)の黃巖島(スカボロー礁)とごっちゃにする見(jiàn)解を入念に選択し、「ベトナムが最も早く西沙に対して行政管轄を施行し、最も早く西沙、南沙を版図に描き入れた」「黃巖島は18世紀(jì)前半にすでにフィリピンの地図に描き入れられた」と主張した。これに関する手段と過(guò)程に対して、韓振華、李金明、李孝聡等中國(guó)の學(xué)者はとっくに考証と反論を行なっている。
(6)「1つの中國(guó)」を分?jǐn)?。フィリピン?cè)は法廷尋問(wèn)の際に、なんと「1949年から中華人民共和國(guó)政府のみが中國(guó)を代表している。したがって、1949年以前の中華民國(guó)政府の行為は中國(guó)に帰すことができるが、1949年以降の臺(tái)灣當(dāng)局の活動(dòng)は本質(zhì)的にもう中國(guó)には帰さない」と主張した。フィリピン側(cè)は中比國(guó)交樹(shù)立聲明における「1つの中國(guó)しかなく、臺(tái)灣は中國(guó)の領(lǐng)土の不可分の一部であるという中華人民共和國(guó)政府の立場(chǎng)を十分理解し、尊重する」との厳粛な約束に公然と背き、1949年の中華人民共和國(guó)成立後、中國(guó)の臺(tái)灣側(cè)の行為も中國(guó)に屬すことを否定し、実質(zhì)的に「1つの中國(guó)、1つの臺(tái)灣」を主張し、「中國(guó)は1988年になって初めて南沙で実際のプレゼンスを築いた」などの論點(diǎn)を打ち出した。臺(tái)灣側(cè)は1950年から短期間南沙?太平島から撤退したが、1956年にフィリピン側(cè)が「クロマ」事件を引き起こして意図的に中國(guó)の南沙諸島の一部島?礁を侵略?占領(lǐng)したため、直ちに戻り、以降長(zhǎng)年にわたり駐屯し、南沙海域で定期巡航、民事開(kāi)発を行なっている。
(7)少數(shù)の研究を客観的事実とする。フィリピンは東南アジア諸國(guó)、歐米植民地國(guó)家が11世紀(jì)以前と植民地時(shí)代における南中國(guó)海の開(kāi)発、管轄に果たした役割を論証する際に、有力な証拠を示すことができず、客観的事実を顧みず、少數(shù)の學(xué)者の見(jiàn)解を選択的に用い、こうした國(guó)々の役割を誇張することしかできなかった。だが、これによって南中國(guó)海を往來(lái)した各國(guó)の航海者による忠実な記録を帳消しにすることも、南中國(guó)海海底に沈む歴代中國(guó)の沈沒(méi)船が殘した痕跡をぬぐい去ることもできない。
フィリピン側(cè)がその噓にどれほど華美な仮面をかぶせて、中國(guó)の政府と人々が南中國(guó)海の歴史に刻んだ深い痕跡を覆い隠して、世界の人々を騙そうとしても、中國(guó)が歴史的事実に基づき南中國(guó)海で有する主権と権益は抹消できず、真相は永遠(yuǎn)に1つのみであり、正義は永遠(yuǎn)に姿を消すことがない。(編集NA)
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2016年5月25日
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