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中國(guó)の「カッコイイ」毛筆に感じたこととは?

「手書き」の文字と毛筆 作家?平野啓一郎氏

人民網(wǎng)日本語版 2019年07月24日09:26

中國(guó)と日本の文學(xué)交流には、長(zhǎng)い歴史があり、私自身も、この十年ほどは、主に東アジア文學(xué)フォーラムという中韓日三ヵ國(guó)の作家が參加するシンポジウムを通じて、様々な作家たちと親睦を深めてきた。(文/作家?平野啓一郎

中國(guó)の現(xiàn)代作家の小説は、日本でも多く翻訳されており、莫言、鉄凝、殘雪、余華、蘇童、閻連科、……などは、私も一読者として愛読してきた。つい最近では、世界的なベストセラーとなったSF小説『三體』(劉慈欣)の日本語訳が刊行され、やはり大きな話題となっているところである。

中國(guó)の作家たちと共に過ごす時(shí)間は、いつでも非常に楽しいのだが、少々、戸惑うこともある。総じて、中國(guó)の作家たちが非常に達(dá)筆であるためである。

シンポジウムでは、よく會(huì)場(chǎng)に設(shè)置されたパネルや準(zhǔn)備されたボードなどに、參加作家が寄せ書きをするのだが、出來上がったものを見ると、中國(guó)の作家のサインと日本の作家のサインとで、その歴然たる差に些か気が滅入ってしまう。前回、ソウルで開かれた東アジア文學(xué)フォーラムでも、私たち日本の作家は、中國(guó)の作家たちの字の立派なことに感嘆し、自分たちの字のお粗末なことに、顔を見合わせて苦笑したものである。

日本の作家も、揮毫を求められることはあるが、その価値は、その人が書いた、という事実にこそあり、書として優(yōu)れて評(píng)価されている人は、特に若い作家の場(chǎng)合はほとんどいないと言っていいだろう。

日本の教育では、書道を?qū)Wぶ時(shí)間があり、私も中學(xué)時(shí)代には、王羲之や顔真卿の臨書をやったものだが、殘念ながら、大して身にはつかなかった。ただ、大學(xué)時(shí)代に少し草書や行書を習(xí)っていたので、結(jié)局のところ、字は巧くないのだが、簡(jiǎn)體字を理解するのに役立っている。

そう言えば、私が子供の頃には、左利きの子供は、右利きに矯正されるという悪習(xí)があり、箸も鉛筆も、右手で使う訓(xùn)練をさせられていた。

私は右利きだったが、左利きの友人は少數(shù)ながらクラスにいて、右手で字を書くのに慣れるまで、隨分と苦労していた。

それでも、箸はともかく、字は右手で書く訓(xùn)練をした方が合理的だろうと、私も納得していたところがある。「一」という字一つ採(cǎi)ってみても、左手で、押すようにして線を引くのは、難しいのではないかという感じがしていたからである。特に毛筆では。

ところが、以前、莫言氏が、揮毫しているところを間近で見ていて、私は目を丸くした。彼は、右手で非常に素晴らしい字を書いたあとで、今度は左手でも見事な、実に味わい深い書を披露したからである!

私は驚いて、莫言氏に、日本では――私が子供の頃には――左利きの人は右手で書くように矯正されていたが、中國(guó)ではそういうことはなかったのですかと訊ねると、それはない、という返事だった。私は、少し呆気に取られてしまった。日本のあの書道教育は、一體、何だったのだろうか?

昨今では、平均的に、日本人の字はかつてよりもヘタになっているように思う。

勿論、達(dá)筆の人もいるので、これはかなり亂暴な言い方だが、「かつてより」と言えると思うのは、実際に字を書く機(jī)會(huì)自體が、パソコンやスマホのせいで激減しているからである。私自身、原稿はパソコンで書いているが、長(zhǎng)い小説のゲラは、PDFではなく、紙で見直し、赤いボールペンで訂正箇所に書き込みをしている。そして、その度に、私自身、かつてより字がヘタになっている、という情けない自覚を抱くのだった。

日本で今日、手書きが必要になるのは、事務(wù)手続きに必要な書類の穴埋めする時(shí)か、さもなくば、大切な人に手紙を書く時(shí)くらいである。前者は、ぞんざいな、読めれば良い程度の字であり、後者はやはり特別に丁寧に書こうとする。その中間の、日常的な手書きの字を書く場(chǎng)所はかなり失われている。

中國(guó)といっても、私が知っているのは、主に北京や上海といった極一部の大都市だが、これほどのIT大國(guó)になっても、ここではまだ、日常の中に手書きの文字が生きている、という感じがする。それは、作家たちだけでなく、サイン會(huì)に並んでくれる読者が、為書き用に、自分の名前を紙に書き記した字を見ても思うことである。

それとも、単なる外國(guó)人の誤解だろうか? 中國(guó)國(guó)內(nèi)でも、ITが手書きの文字に及ぼした影響は、夙に語られているのではないかと思うが。

現(xiàn)代中國(guó)と毛筆の書との関係で、もう一點(diǎn)、興味深いのは、看板の文字である。

日本も中國(guó)も、デザインに関しては、歐米の大きな影響下にあることは言うまでもない。そして、例えば日本のレストランが、「和モダン」などと稱されるテイストの內(nèi)裝で、現(xiàn)代性と日本的な伝統(tǒng)(と認(rèn)識(shí)される表象)の融合を図っているように、北京や上海の最新のレストランでも、「中華モダン」とでも言うべき絶妙なデザインが目につく。

しかし、日本の場(chǎng)合、街中の看板の文字は、すべてゴチック體や明朝體を中心とした印字體で、中國(guó)で、高層ビルに毛筆體で社名が書かれている、というのは、日本とかなり異なる風(fēng)景である。

本の裝幀に関してもそうで、私は『日蝕』や『一月物語』、『私とは何か――分人理論』といった自著の中國(guó)語版のタイトルが、いずれも「カッコいい」毛筆で書かれていることに感動(dòng)した。

日本のグラフィック?デザインのタイポグラフィに於いて、毛筆の書體の存在感は非常に弱い。焼酎のラベルや和食レストランの店名、大河ドラマの題字など、ロゴに関しては、今でも毛筆がしばしば見受けられるが、それらは正統(tǒng)な書體というより、かなりコマーシャルなデザインになっている。

東京國(guó)立博物館の顔真卿展は、日本でも大きな話題となったが、他方で私は、現(xiàn)代中國(guó)の日常的な街並みの中の毛筆體の生かし方、人々の何気ない手書きの文字にも関心が盡きない。

「人民網(wǎng)日本語版」2019年7月24日

  

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