
2003年、45年間務めた村の幹部の職を退き、「日の出と共に活動を始め、日が暮れると家に戻る」という農(nóng)民の生活を送りながら、用水路をパトロールし、清掃作業(yè)をするというのが今でも日課となっている黃大発さん(羅星漢/人民図片)。
中國貴州省遵義市草王壩村(現(xiàn)在の播州區(qū)団結村)は、山々にすっぽりと囲まれたような場所にある山奧の村で、水不足が貧困の根本的原因となっていた。そして、昔から村の人々は先祖代々、「山は高く、石が多く、他の土地へ行くには坂を上らなければならない。1年中、貧相な食事をし、重湯を飲めるのは正月だけ」という民謡を口ずさんでいたほどだった。人民日報が報じた。
同村に住む黃大発さん(86)は、これを「運命」と決めつけることなく、不屈の精神で、大きな山と闘い、36年かけて、用水路を建設してきた。

2016年6月26日、用水路をパトロールし、清掃作業(yè)をする黃大発さん(羅星漢/人民図片)。
1935年に草王壩村で生まれた黃さんは、23歳の時に中國共産黨に入黨した。そして、その年に同村の大隊長に就任。意気揚々と「用水路を建設する」という決意を語った。
しかし、現(xiàn)実は極めて殘酷だった。黃さんたちは必要なスキルなどなく、測量といっても、竹竿を立てるだけ。コンクリートは不足していたため、溝の壁に直接泥を塗るだけの狀態(tài)で、洪水対策のための溝もなく、洪水が生じると、脆弱な溝は原型すら留めないほど破壊されてしまうのだった。
しかし、黃さんは決して諦めることなく、必要な知識についてあちらこちらに教えを請い、水利技術を獨學した。建設中のダムや用水路があることを聞くと、すぐに保存可能な食べ物をリュックに入れて、現(xiàn)場に向かった。
1992年の春、黃さんが筆頭となり村民らは、山奧へ入り、用水路建設を始めた。來る日も來る日も休むことなく、黃さんは200人以上の作業(yè)員と共に山に入り道を切り拓き、村民らは後方で、セメントを作り、用水路を築いた。

2016年6月26日、麥博希望小學校で遊ぶ子供。同小學校は黃大発さんが筆頭となり建設され、開校當時は村の子供100人の通學の問題を解決した。近年、企業(yè)の寄付により、改修工事が行われ、現(xiàn)在の狀態(tài)にまで改善された(羅星漢/人民図片)。
こうした必死の努力が実り、1995年、7200メートルの主水路と2200メートルの支水路からなり、連なる大きな山々を囲うように走る「命の用水路」が完成し、水が流れるようになった。
通水した日、村の人々は山や用水路の周りで爆竹を鳴らしたり、大きな拍手をしたりと、大賑わいとなった。そして、ブタを屠殺して宴會をしたり、ステージを設けて祝い、大盛り上がりとなった。その日は、草王壩村の村民にとって、最もうれしい日で、積年の夢がついにかなった日となった。大勢の人がステージの上で黃さんを囲んで今の気持ちを聞くと、黃さんは感極まって言葉が全く出ず、目からこぼれる涙が、日焼けしてしわができた顔をずっと流れるだけだった。
「山が高いことも、石が多いことも怖くない。一生懸命頑張れば貧困を脫卻することができる。巖を砕いて水を引き、田んぼを作り、貧しい村が豊かな村へと変わった」。草王壩村の村民の懐は少しずつ暖かくなり、その暮らしは日一日と幸せに向かって歩み始めている。(編集KN)
「人民網(wǎng)日本語版」2021年7月15日
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