日本乱中文字幕系列下载,亚洲男人的天堂在线vA,日本淫秽视频网址,日本中文字幕亚洲乱码

平和を願(yuàn)う「紫金草」の歌聲を聞いてください

歴史を銘記し未來を切り開く

人民網(wǎng)日本語版 2025年08月15日11:01

3月25日、「平和音楽の木」にQRコードを取り付ける大門高子氏(右)と南京紫金草童聲合唱団の団員。このQRコードから、「平和の花 紫金草」を聴くことができる。寫真提供:中國(guó)侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀(jì)念館。

3月25日、「平和音楽の木」にQRコードを取り付ける大門高子氏(右)と南京紫金草童聲合唱団の団員。このQRコードから、「平和の花 紫金草」を聴くことができる。寫真提供:侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館。

 「花が咲いている 紫の野の花よ 風(fēng)にゆれる やさしい花よ 海を越えた平和の種 想いをよせて花が咲いたよ」

日本?石川県の金沢市中央公民館2階のリハーサル室で、紫金草合唱団の団員たちが指揮者の指揮に合わせて靜かに歌っている。その傍らには、毛筆で「不忘歴史 面向未來」(歴史を忘れず未來へ向かう)と書かれた大きな紙が置かれており、ひときわ目を引いていた。(文:人民日?qǐng)?bào)記者 朱玥穎)

1998年に日本で結(jié)成された紫金草合唱団は、歌聲で歴史を語り、平和を愛し戦爭(zhēng)に反対する正義の人々を団結(jié)させ、共に未來を守り続けてきた。

中國(guó)侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀(jì)念館の紫金草花園で、紫金草國(guó)際ボランティアと共に紫金草の種をまく大門高子氏(左から3人目)。寫真提供:中國(guó)侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀(jì)念館。

侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館の紫金草花園で、紫金草國(guó)際ボランティアと共に紫金草の種をまく大門高子氏(左から3人目)。寫真提供:侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館。

■一輪の紫の花が國(guó)境を越えた平和の使者に

 8月は紫金草の種まきの季節(jié)である。

紫金草というのは、中國(guó)語で「二月蘭」と呼ばれる花で、和名はムラサキハナナ(またはオオアラセイトウ)。かつて中國(guó)侵略日本軍の戦火の中でも咲き続け、今では日本各地へと広まったこの花は、「平和の花」と呼ばれている。紫金草合唱団の名はこの花から取られた。

1939年春、中國(guó)侵略日本軍衛(wèi)生材料廠の山口誠(chéng)太郎廠長(zhǎng)は南京を訪れた。當(dāng)時(shí)、南京大虐殺の陰はなお消えず、街全體に破壊の跡が見られ、紫金山の満開の二月蘭だけが、廃墟の中で生まれる希望を告げていた。この光景は山口氏の胸に刺すような深い痛みを殘した。中國(guó)侵略戦爭(zhēng)への反省と懺悔を込め、彼は二月蘭の種を日本に持ち帰り、「紫金草」と名付けて自宅の庭に植えただけでなく、日本各地の學(xué)校や公園、コミュニティへ贈(zèng)った。さらに家族と共に列車に乗り、種を練り込んだ泥の塊を窓から撒き、日本中に紫金草を広めた。

山口氏は日本各地で講演を重ね、歴史を銘記して平和を大切にするよう日本國(guó)民に呼びかけた。1966年に亡くなる前、「紫金草一株一株の背後には無辜の中國(guó)人犠牲者の魂がある。この花を見る日本人一人一人に歴史を銘記させる必要がある。侵略戦爭(zhēng)の悲劇を決して繰り返してはならない」との遺言を殘した。息子の裕氏はその使命を継ぎ、1985年の國(guó)際科學(xué)技術(shù)博覧會(huì)だけでも、ボランティアと共に「平和祈願(yuàn)」と書かれた紫金草の種約100萬袋を各國(guó)からの來場(chǎng)者に配った。

東京都北區(qū)在住の児童文學(xué)作家?大門高子氏を訪ねると、大門氏は胸に紫金花のバッジをつけ、「むらさき 花だいこん」を朗読してくれた。1990年代に紫金草の種をまく山口家についての報(bào)道を読んだ大門氏は、紫金草が南京で咲いていた花であることを知り、その物語を人々に語りたいと強(qiáng)く願(yuàn)うようになった。大門氏は山口家をわざわざ訪れ、紫金草の物語を詳しく知り、山口氏の物語をもとに、絵本「むらさき 花だいこん」を創(chuàng)作し、出版。さらに、作曲家の大西進(jìn)氏と共に、合唱と朗読で構(gòu)成された全12章?1時(shí)間近くの組曲「紫金草物語」を創(chuàng)作し、中國(guó)侵略戦爭(zhēng)への深い懺悔と平和維持への強(qiáng)い願(yuàn)いを表現(xiàn)した。

1998年、大門氏が音頭を取り、東京紫金草合唱団、関西紫金草合唱団(大阪)、金沢紫金草合唱団(石川県)、みやぎ紫金草合唱団(宮城県)など各地で市民合唱団が結(jié)成された?,F(xiàn)在、合唱団の団員は約150人おり、「花が好き、歌が好き、平和が好き、そして人間が好き」を合言葉としている。大門氏によると、紫金草合唱団は結(jié)成以來、日本各地で數(shù)百回、中國(guó)と米國(guó)でも計(jì)13回公演を行い、歌聲で南京大虐殺の犯罪行為を告発し、平和の維持を訴えてきた。

■一つの組曲が真実の歴史の記憶を伝える

 「花は見ていた戦爭(zhēng)の悲しさ 風(fēng)と歌う レクイエム……」

組曲「紫金草物語」は、中國(guó)侵略日本兵が雨の紫金山で南京の少女と出會(huì)う物語を描いている。その大筋は「瓦礫の中で母を探す少女は日本兵を目の前にして驚き怯えるが、兵士に悪意がないことに気づき、一輪の紫金草を差し出す。日本兵はにわかに自分の過ちを悟り、それ以來、斷固として戦爭(zhēng)に反対し、平和を訴え続ける」というものだ。

紫金草合唱団の団員はほとんどが高齢者だが、歌の中の紫金草のような輝きを放ち続けている。たとえ病気を患っていたり、車椅子の身であったりしても、歌聲で正義の聲を上げ続けている。現(xiàn)団長(zhǎng)の中村昭一氏は元高校音楽教師。「日本の侵略戦爭(zhēng)は完全な誤りだ。ましてや他國(guó)を軍靴で踏み荒らすことは、とんでもないことだ。深い反省が必要だと思う。事実をしっかり見つめて、正しい物の見方を子供達(dá)に伝えたいと思っていた」という中村氏は、「紫金草物語」との出會(huì)いを振り返り、「メロディもとても美しいし、とても素?cái)长是胜韦?、特別な曲になると當(dāng)時(shí)から思っていた。案の定、これが私のライフワークになった」と語る。

3月27日、南京市建鄴區(qū)少年宮劇場(chǎng)で開催された合唱コンサート「歴史を銘記し、平和を大切にする」で歌う紫金草合唱団。寫真提供:中國(guó)侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀(jì)念館。

3月27日、南京市建鄴區(qū)少年宮劇場(chǎng)で開催された合唱コンサート「歴史を銘記し 平和を大切にする」で歌う紫金草合唱団。寫真提供:侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館。

 「歴史をきちんと自分のものにして學(xué)んで、そして反省をして、謝罪をして、そして手を取りあて未來を築いていけると私は固く信じておりますので、『不忘歴史 面向未來』という言葉は紫金草合唱団のテーマとして大事にしております」。団員の大森和子氏は、紙に大きく書かれた「不忘歴史 面向未來」という文字を指してこう語った。この8文字は、合唱団の公演のたびに目立つ位置に掲げられている。

元団長(zhǎng)の藤後博巳氏(95)は中國(guó)侵略戦爭(zhēng)中に招集されて中國(guó)へ渡った。日本敗戦時(shí)に15歳だった藤後氏は路頭に迷い、どう生きていけばいいのか途方に暮れていた。そんな時(shí)、哈爾浜の道外區(qū)で中華料理店の店主が救いの手を差し伸べてくれた。藤後氏は「あの時(shí)、助けてもらわなかったら、私は死んでいただろう。今思い出しただけでも、涙が出そうになる」と當(dāng)時(shí)を振り返り、中國(guó)人の寛大さに救われたと語る。その後、藤後氏は東北民主連軍に加わり、解放戦爭(zhēng)にも參加。1955年の帰國(guó)後は日本共産黨に加わり、反戦運(yùn)動(dòng)に盡力した?!笐闋?zhēng)を繰り返しては絶対にならないと、私は常に堅(jiān)く信じている」。藤後氏は「日本國(guó)憲法第9條には、武力を捨てると明記している。それを守っていくことが、私の務(wù)めだ」と語る。

団員の波多野晶子氏は日本の中國(guó)侵略戦爭(zhēng)による殘留孤児だ。1942年に哈爾浜で生まれ、日本の敗戦?降伏時(shí)にわずか3歳で両親に捨てられたが、後に中國(guó)人に育てられ、中國(guó)で44年間暮らした後、日本に帰國(guó)した。波多野氏は「敗戦時(shí)、數(shù)多くの日本の子供が中國(guó)で捨てられた。かつての戦爭(zhēng)被害者である普通の中國(guó)の人々が、恨み言一つ言わずに日本人孤児を大人になるまで大事に育ててくれた。養(yǎng)母は私に実の子のように接し、善良で寛容な人間性を行動(dòng)で示してくれた」と語る。

 波多野晶子氏は2014年の中國(guó)帰國(guó)者合唱団の公演を見た大門氏に招かれ、紫金草合唱団に參加した?!附M曲『紫金草物語』第七章『雨の紫金山』はちょうど雨が降る中、一人の少女が花を手にして、お母さんを探していましたことを描いています。それはまさに私自身が體験したことだった」と波多野晶子氏は語る。波多野晶子氏は深紫色の服を著て、「紫金草物語」の楽譜にそっと觸れながら、「歌聲を通じて、『私たちは戦爭(zhēng)を起こしてはいけない、平和を願(yuàn)ってやまない』というメッセージを世界に伝えたい」と語った。

■一度の公演が心の溝を取り除く

「南京は日本人が向き合うことを最も恐れる場(chǎng)所だが、それでも行かなければならない」。大門氏は南京での公演當(dāng)時(shí)の心情をこう振り返った。2001年、南京市人民対外友好協(xié)會(huì)など各方面の努力により、紫金草合唱団は初めて南京で公演を行い、日本國(guó)民の戦爭(zhēng)への反省と平和への祈りを?qū)盲堡?。団員の中には、父親がかつて中國(guó)侵略戦爭(zhēng)に參加した人もおり、公演前には申し合わせたように父親の遺影を胸ポケットに忍ばせ、「お父さん、私は南京に來た。あなたたちに代わって歌聲で謝罪する」と小さくつぶやいたという。

「あの公演の前は、中國(guó)の観客が私達(dá)にどのような態(tài)度をとるのか分からず、とても不安だった」。大門氏は「南京の観客は合唱団の歌聲を非常に真剣に聴き、演奏が終わると長(zhǎng)い間、鳴りやまぬ拍手を送ってくれた。涙を流す人も少なからずおり、平和のために私達(dá)と共に努力したいと語ってくれた。これは私にとって、とても感動(dòng)的だった。真摯な歌聲は、人々の心の溝と裂け目を取り除いた」と振り返った。

中國(guó)侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀(jì)念館の紫金草花園にある「不忘歴史 面向未來 和平的誓言 紫金草」(歴史を忘れず 未來へ向かう 平和の誓い 紫金草)と刻まれた石碑。寫真提供:中國(guó)侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀(jì)念館。

侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館の紫金草花園にある「不忘歴史 面向未來 和平的誓言 紫金草」(歴史を忘れず 未來へ向かう 平和の誓い 紫金草)と刻まれた石碑。寫真提供:侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館。

侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館の紫金草花園には、「不忘歴史 面向未來 和平的誓言 紫金草」(歴史を忘れず 未來へ向かう 平和の誓い 紫金草)と刻まれた石碑がある。初めて南京で公演した際、紫金草合唱団の団員達(dá)はここに紫金草の種をまいた。今ではそこに花畑が広がっている。多くの南京の若者が「紫金草ボランティアグループ」を結(jié)成し、自発的に手入れに參加して、この花畑を長(zhǎng)く咲かせ続けている。

大門高子氏の夫であり、同じく紫金草合唱団の一員である大門康睦氏は、「日本軍國(guó)主義の発動(dòng)した侵略戦爭(zhēng)は中國(guó)の人々に甚大な慘禍をもたらした。私達(dá)は中國(guó)の人々に誠(chéng)実な謝罪の意を表すべきだ」と語る。紫金草合唱団は日本軍による南京大虐殺の犯罪行為を告発しているため、日本國(guó)內(nèi)では資金援助を受けることが難しく、公演のたびに団員が経費(fèi)を自費(fèi)で負(fù)擔(dān)している。団員の波多野氏は「多くの団員はサラリーマンで、南京公演にかかる費(fèi)用は數(shù)ヶ月分の生活費(fèi)に相當(dāng)する。それでも私達(dá)はこれを意義あることと考え、皆お金を貯めて公演に行きたいと思っている」と語る。

侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館の見學(xué)から、中國(guó)人民抗日戦爭(zhēng)紀(jì)念館への獻(xiàn)花、南京理工大學(xué)大學(xué)生蕓術(shù)団との合唱、小學(xué)3年生から5年生で構(gòu)成される南京紫金草児童合唱団との共演に至るまで、20年以上にわたって紫金草合唱団が行ってきた公演は、その一つ一つが深い記憶となり、その歌聲の一つ一つが歴史への問いかけと銘記となってきた。

今年3月、紫金草合唱団は再び南京で公演を行い、平均年齢75歳を超える約70人の団員が、50分近くにわたって立ったまま曲を歌い切った。最後の音符が響き終わると、白髪の団員たちは中國(guó)の子供達(dá)と舞臺(tái)上でしっかりと抱き合い、多くの観客が涙を流した。「私は今年すでに80歳だが、歌えるうちは歌い続ける」と大門高子氏は語る。

■一粒の種が侵略戦爭(zhēng)を反省するよう警鐘を鳴らす

侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館の紫金草花園は、山口裕氏ら日本人によって2007年に寄贈(zèng)されたものだ。紫金草花園の中には「紫金花の少女」の銅像が靜かに佇んでいる。銅像は、中國(guó)人民抗日戦爭(zhēng)期で、花に囲まれた石の上に立つ7~8歳の少女の姿をしている。少女は大きく目を見開き、無言のままその悲痛な歴史を訴えている。2009年の銅像除幕式で、山口氏は「紫金草に込められた精神は極めて貴重であり、日本國(guó)民に侵略の歴史を忘れないよう常に警鐘を鳴らしている」と述べた。

中國(guó)侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀(jì)念館の紫金草花園に靜かに佇む「紫金花の少女」の銅像。寫真提供:中國(guó)侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀(jì)念館。

侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館の紫金草花園に靜かに佇む「紫金花の少女」の銅像。寫真提供:侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館。

紫金草合唱団事務(wù)局長(zhǎng)の山野下とよ子は元小學(xué)校教員であり、長(zhǎng)年にわたり児童に戦爭(zhēng)の悲慘さを教えてきた。山野下氏は「日本では『日本が被害を受けた』ことだけ教え、日本人が犯した加害のことはほとんど教えられていなかった?!鹤辖鸩菸镎Z』は加害について教えるには本當(dāng)にいい話でもあるし、中國(guó)でも南京の人達(dá)に聴いていただいて、南京の人達(dá)と友好をすごく深めてこられた」と語る。

「日本の歴史教科書は侵略の歴史を意図的に矮小化?否認(rèn)、さらには改竄し続けてきた。少なからぬ日本のメディアも、日本の中國(guó)侵略戦爭(zhēng)について客観的かつ真実の報(bào)道をしていない。私は皆にこの歴史を忘れないでほしい。私達(dá)の歌を通して、両國(guó)民の平和と友好への願(yuàn)いを表現(xiàn)したい」と語るのは、紫金草合唱団の団員であり、今年88歳になる姫田光義氏だ。日本の中央大學(xué)名譽(yù)教授で「撫順の奇蹟を受け継ぐ會(huì)」會(huì)長(zhǎng)でもある姫田氏は、日本による中國(guó)侵略の歴史から目を背けずに向き合ってきた。

「1931年の九一八事変(満州事変)、1937年の南京大虐殺のことを日本のマスメディアは一切言わない。南京大虐殺だけでも、日本軍は30萬人の中國(guó)人を殺害した」。姫田氏は厳しい面持ちで語り、深々と頭を下げて、日本人は中國(guó)の人々に謝罪しなければならないとの思いを語った。

姫田氏の説明によれば、日本の敗戦後、約千人の戦犯が中國(guó)の撫順戦犯管理所に送られ、改造教育を受けた。中國(guó)の職員は真心を込めて日本人戦犯を教育し、「千秋萬歳、望後世之思」(長(zhǎng)く後世に伝えんことを望む)と諭した。釈放され帰國(guó)した後、一部の人は「中國(guó)帰還者連絡(luò)會(huì)」を結(jié)成して、反戦と日中友好の事業(yè)に身を投じた。2002年、「中國(guó)帰還者連絡(luò)會(huì)」は會(huì)員の高齢化により解散したが、日本の各界の有識(shí)者が同年「撫順の奇蹟を受け継ぐ會(huì)」を設(shè)立した。

數(shù)年後、撫順戦犯管理所を題材にした合唱組曲「再生の大地」が制作され、「再生の大地」合唱団の公演が各地で行われた。姫田氏は「歌聲は人々の共鳴を呼び、合唱団には幅広い世代の日本人が參加できる。私達(dá)は歌聲を通じて、『人』を『鬼』に変えるような殘酷な戦爭(zhēng)を再び起こしてはならない、日本を再び隣國(guó)を傷つける國(guó)にしてはならない、世代を超えて平和と安寧への祈りを伝えていかねばならないと訴えていきたい」との意を示した。

 「過去のあやまち 忘れぬように祈りをこめて花を捧げよう フォピンディホア ツーチンツアオ……」6月25日午前、在日本中國(guó)大使館で、中國(guó)人民抗日戦爭(zhēng)ならびに世界反ファシズム戦爭(zhēng)勝利80周年記念レセプション「歴史を銘記し 平和を守る」が開催され、空席がないほどの盛況となった。このレセプションには、紫金草合唱団の団員たちも日本各地から駆けつけ、深い思いを込めて組曲「紫金草物語」第12章「平和の花 紫金草」を歌い上げた。

レセプション會(huì)場(chǎng)の入口では、紫金草合唱団の用意した資料がスタッフから來場(chǎng)者に配られた。資料とともに、紫金草の種も手渡された。資料には、「日本國(guó)は敗戦80年の節(jié)目をむかえたことから、あらためて、二度と侵略戦爭(zhēng)はしない誓いをあらたにしています。その誓いの実踐として紫金草物語を歌ってゆく覚悟です」と記されていた。(編集NA)

2003年、中國(guó)侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀(jì)念館で公演する紫金草合唱団。寫真提供:大門康睦氏。

2003年、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館で公演する紫金草合唱団。寫真提供:大門康睦氏。

「人民網(wǎng)日本語版」2025年8月15日

注目フォトニュース

関連記事