
松山樹(shù)子さん。「朝日新聞」ネットより
夫の故清水正夫さんと松山バレエ団を創(chuàng)立した著名バレエダンサーの松山樹(shù)子さんが5月22日、東京都內(nèi)の自宅で亡くなった。享年98歳。人民網(wǎng)が報(bào)じた。
鹿児島県出身の松山さんは、ロシア生まれの舞踴家オリガ?サファイアさんに師事。1948年に夫の清水氏と共に松山バレエ団を創(chuàng)立し、少しずつ日本を代表するバレエ団へと育て上げた。松山さんと清水さんは中國(guó)映畫(huà)「白毛女」を見(jiàn)て、深く感動(dòng)し、1955年には、同映畫(huà)をバレエ化した。松山バレエ団は、世界で初めて「白毛女」をバレエ化したアート団體で、松山さんはヒロインの「喜児」を演じた?!赴酌工韦郅?、松山さんは、「紅色娘子軍」や「白鳥(niǎo)の湖」、「オセロ」などの有名なバレエ作品にも出演した。
松山バレエ団は、1958年に初の中國(guó)公演を?qū)g現(xiàn)。北京や上海、重慶、武漢など、訪問(wèn)した都市で、大きな話題となった。1958年から2018年の間に、松山バレエ団は16回中國(guó)公演を行い、「白毛女」を縁に、バレエを通して、中國(guó)の人々と心を通じ合わせ、互いに信頼を深め、中日両國(guó)の友好交流において不可欠な文化交流の架け橋となり、両國(guó)の友好の歴史を刻み、その証人となってきた。

松山バレエ団16回の中國(guó)公演
松山さんは人生全てを、自分を夢(mèng)中にさせた、大好きなバレエに捧げた。體調(diào)を崩し、療養(yǎng)していた間も、バレエ団內(nèi)に療養(yǎng)室を置き、音楽やダンサーたちが踴る足音を聞いて過(guò)ごした。
松山さんの長(zhǎng)男で、現(xiàn)在松山バレエ団の総代表を務(wù)める清水哲太郎さんは、「母は踴りに自身を捧げ、多くの人に幸せを?qū)盲堡毪长趣蛞簧鷳颐浃盲?。完璧に輝く命を見(jiàn)せてくれた」と語(yǔ)る。
松山バレエ団の団長(zhǎng)で、2代目「喜児」を演じた、清水哲太郎さんの妻である森下洋子さんも、「松山先生の舞臺(tái)を見(jiàn)た時(shí)、鳥(niǎo)肌が立ち、気が付いたら涙が出ていた。それから手取り足取り、大切に教えていただいた。寶物をたくさん殘してくださって感謝の気持ちでいっぱい」と語(yǔ)った。
松山バレエ団が長(zhǎng)年、「白毛女」の練習(xí)と上演を続けていることについて、清水哲太郎さんは2018年の人民網(wǎng)の取材に対して、「中國(guó)人が中國(guó)の民間の物語(yǔ)を描寫(xiě)するというのは普通のこと。でも、日本人がそれをするとなると、重要な意義がある。私たちは近代史に殘る不幸な歴史を背負(fù)っている。中國(guó)人のために『白毛女』を上演する意義は非常に大きい。中國(guó)であっても、日本であっても、『白毛女』の上演をする時(shí)、中國(guó)の方々が、心から涙を流し、私たちを受け入れてくれる。そのようなシーンを見(jiàn)て、アートを通して、中國(guó)人と共に前進(jìn)するという方法に間違いはないのだと確信させられている」と語(yǔ)った。
松山バレエ団は創(chuàng)立以來(lái)、バレエの民族化、現(xiàn)代化改革、中日文化交流に力を入れてきた。2020年2月、中國(guó)が新型コロナウイルス対策を積極的に講じる中、松山バレエ団が中國(guó)の國(guó)歌「義勇軍進(jìn)行曲」を歌う動(dòng)畫(huà)を送り、注目を集めた。その心のこもった歌聲に、多くの人が心を溫めた。また松山バレエ団は、在日本中國(guó)大使館を通して、醫(yī)療?衛(wèi)生物資を寄贈(zèng)した。(編集KN)
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2021年5月25日