金喬氏は1958年生まれで、ハルビン師範(fàn)大學(xué)を卒業(yè)した。1987年にハルビン理工大學(xué)客員研究員として日本を訪れ、東京學(xué)蕓大學(xué)の大學(xué)院を卒業(yè)し、96年に帰國した。2002年には北京毎日徒歩運(yùn)動(dòng)センターを設(shè)立し、萬里の長城、シルクロード、黃河の上流、桂林市の漓江、內(nèi)モンゴルの草原、チベット、北京の周辺各地などでウォーキングイベントを行った。同センターは2005年に國際市民スポーツ連盟の中國本部に加盟した。金氏は一般人のウォーキングの提唱者として、健康?文化?歴史の道を歩む人々の先頭に立っている。
インタビューの実録
■日本の津田塾女子大學(xué)に入學(xué)
記者:日本に留學(xué)したのはいつですか?
金氏:私は早かった方です。出発したのは1986年末で、日本に到著したのは1987年の元旦でした。當(dāng)時(shí)はハルビンから列車で上海に行き、さらに鑑真號(hào)と呼ばれる船で大阪に行く必要がありました。そこからさらに新幹線で東京に移動(dòng)しました。私が日本で通った最初の大學(xué)は、女子大學(xué)だったからです(笑)。
私の母はハルビンで大學(xué)卒業(yè)後に日本語教師になりました。當(dāng)時(shí)ハルビンでちょうど、國際的な商談會(huì)が開かれており、母は學(xué)生を連れて翻訳に行きました。私も日本語を?qū)W習(xí)したことがあり、手伝いに行きました。商談會(huì)の前日、私が連れていた日本の代表団は大通りで、観光に來ていた日本人女性と出會(huì)いました。その人はハルビンで列車を降りると泊まる場所が見つからず、困り果てて涙を流しそうになっていました。
私はあちこち駆けずり回って、女性の宿泊場所を探しました。私達(dá)は知り合ってから、良い関係になりました。彼女の帰國後も文通が続きました。私は日本で學(xué)習(xí)したいことを明かし、彼女は學(xué)校でつてを求めてくれました。彼女の推薦により、筑波大學(xué)のある學(xué)部長が、私の受け入れに同意してくれました。手続き中に、この先生は日本の女子大學(xué)である津田塾大學(xué)に転勤しました。その後さらに特別な手続きを経て、私は先生と津田塾大學(xué)に入りました。私はこの長い歴史を持つ女子大學(xué)の初の男子生徒となり、しかも中國人でした。私の先生も、中國人の留學(xué)生を受け入れるのは初めてでした。
大學(xué)で、私は主に日本語を勉強(qiáng)しました。2年後に先生は、女子大學(xué)は男子生徒に卒業(yè)証書を與えられないと言いました。先生はその後、私に國立東京學(xué)蕓大學(xué)を紹介してくれました。そこで私は2年間の修士課程を選択しました。
■新聞配達(dá)と中國語教師のアルバイト、日本社會(huì)の人情を體験
記者:初めての日本について、どのように感じましたか?
金氏:86年末から87年にかけて、中國人留學(xué)生は多くありませんでした。當(dāng)時(shí)の中日両國の民間のムードにより、私はまごころや親しみといったものを感じていました。當(dāng)時(shí)の日本社會(huì)は中國に良いイメージを持っており、しかもそれには純粋な感覚がありました。
學(xué)校に通っている頃は収入がなく、アルバイトをせざるを得ませんでした。私は學(xué)校の近くに住んでいたので、新聞配達(dá)のバイトを探し、1年半も朝日新聞を配り続けました。新聞配達(dá)の時(shí)に、多くの周辺の住民と接しました。あれは私の初めての仕事で、最大の収穫を得られた仕事でもあります。新聞配達(dá)の他に集金もしていたので、その時(shí)に住民と話ができました。溫かい人も冷たい人もいて、友人のように接してくれる人もいました。あの頃、私は多くの友人と知り合い、日本で発展する二つ目のチャンスをもらいました。私が新聞配達(dá)で苦労しているのを見た女性は、中國語を教えられないかと聞いてきました。私は、そんなのは簡単だと思いました。私はそれから區(qū)役所に行き資金を申請(qǐng)し、補(bǔ)助金をもらえました。場所は區(qū)民會(huì)館で、生徒は無料で授業(yè)が受けられました。私は中國語を3カ月教え、クラスは好評(píng)を博しました。3カ月後に區(qū)役所からの補(bǔ)助金が受けられなくなったので、熱心な主婦が私のために新しい中國語クラスを開いてくれました。このクラスは10年ほど続き、私が中國に帰國する前も開かれていました。
あの頃の日本社會(huì)は、中國に対して深い思い入れを持っていました。高齢者、例えば中國に行ったことのある第二次世界大戦の元兵士、開拓団に加わった人は後悔を胸にしており、一緒に話をしている時(shí)にそれが感じられました。彼らは戦爭が中國にもたらした莫大な損害を知っていたため、いつも機(jī)會(huì)を見つけ中國人に手を貸そうとしました。中國語クラスに參加した多くの人も積極的に私を助けてくれ、とても熱心でした。
その後、日本に留學(xué)する中國人が増え続けました。玉石混交で、中國人留學(xué)生による犯罪が増加し、ニュースで報(bào)じられるようになると、日本人の間で悪い影響が生じました。
特に近年、日本の一般人の中國人に対する友好的な感情が日増しに薄れており、非常に殘念に思っています。
金喬氏。
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