人民網(wǎng)ではこのほど、「AI時(shí)代の外國(guó)語(yǔ)教育 その苦悩と模索」をテーマとする小野寺健氏による連載をスタート。小野寺健氏は特定非営利活動(dòng)法人日中友好市民倶楽部の理事長(zhǎng)を務(wù)めるほか、長(zhǎng)年にわたり數(shù)多くの中國(guó)の大學(xué)で日本に関する教育指導(dǎo)を行い、「淮安市5.1労働栄譽(yù)賞」や「第二回野村AWARD」、「中國(guó)日語(yǔ)教育特別感謝賞」などを受賞しているほか、人民日?qǐng)?bào)海外版では「中日友好民間大使」として紹介されている。
第二章 外國(guó)語(yǔ)學(xué)習(xí)の意義
學(xué)びには目的と意義があり、目的の乏しい學(xué)びは、地図を持たずに歩くが如く、労多くして成果の伴わない遊びであるといえる。
當(dāng)然ながら、時(shí)として遊びも必要であるが、ここでは効果的な學(xué)びであり、その學(xué)びの意義について論じていく。
では、外國(guó)語(yǔ)を?qū)Wぶ意義は、奈辺にあるのだろうか。ドイツの文豪ゲーテは、「外國(guó)語(yǔ)を知らない者は、自國(guó)語(yǔ)を知らない」としている。謂わば他者を知り、自己を顧みることで、物事の本質(zhì)に迫り、より深い叡智を獲得することが、外國(guó)語(yǔ)學(xué)習(xí)の意義であり、「読み書き話せること」は、その前提となるが、外國(guó)語(yǔ)學(xué)習(xí)の意義は、物事の本質(zhì)を捉える賢さを養(yǎng)うことであり、「読み書き話せること」は、寧ろ學(xué)習(xí)の副産物と捉えるべきだ。
しかし、初級(jí)の段階から中級(jí)に至る迄の外國(guó)語(yǔ)學(xué)習(xí)は、「読み書き話せる」ことに終始しており、賢い學(xué)生を育てるという本來(lái)の意義を、喪失しているのが現(xiàn)狀だ。
また、外國(guó)語(yǔ)學(xué)習(xí)の目的は、「読み書き話せる」ことではなく、多様な視點(diǎn)を持ち、賢くなることであるが、ドイツの建築家ミース?ファンデル?ローエが「神は細(xì)部に宿る」としているように、學(xué)習(xí)の前提として「読み書き話せる」能力が密接不可分であることも、殘念ながら事実である。そして、このことが、外國(guó)語(yǔ)教育の混迷と誤解を招く、大きな一因になっている。
なお、言語(yǔ)學(xué)的には、中國(guó)語(yǔ)は孤立語(yǔ)、英語(yǔ)は屈折語(yǔ)、日本語(yǔ)は膠著語(yǔ)に分類されており、この三言語(yǔ)を習(xí)得すれば、異なる言語(yǔ)體系を網(wǎng)羅することになり、夫々の言語(yǔ)が、民族の叡知と習(xí)俗の結(jié)晶であると理解をするならば、中國(guó)人學(xué)習(xí)者にとって、日本語(yǔ)を?qū)Wぶ意義は、小?中?高と積み重ねた孤立語(yǔ)と屈折語(yǔ)に、日本語(yǔ)という膠著語(yǔ)を加えることにより、更に多様な価値観と叡知を継承し、物事の本質(zhì)を捉え、新たに他者と異なる獨(dú)自の視點(diǎn)を持つことで強(qiáng)力な知的武器を手に入れることになるといえるだろう。
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2018年12月21日
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