第3に、甲午戦爭(zhēng)までの20年間、日本海軍省は釣魚島及びその附屬島嶼を臺(tái)灣北東諸島と一貫して認(rèn)識(shí)していた。これには根拠が主に2つあった。1つは、1848年出版の『サマラン號(hào)航海記(1843―1846)』から1894年までの英國(guó)海軍の文獻(xiàn)および地図であり、いずれも釣魚島及びその附屬島嶼を臺(tái)灣北東諸島として記載し、赤尾嶼を中國(guó)の同列島線の最東端と明確に認(rèn)定している。もう1つは、1863年の中國(guó)清朝の『大清一統(tǒng)輿図』だ。同図も釣魚島を中國(guó)臺(tái)灣の島嶼に明確に入れたうえ、赤尾嶼と向かい合う琉球の島「久米島」を異なる方式で表示している。(編集NA)
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2016年5月3日
![]() |
このウェブサイトの著作権は人民日?qǐng)?bào)社にあります。
掲載された記事、寫真の無(wú)斷転載を禁じます。
Tel:日本(03)3449-8257、080-5077-8156 北京 (010) 6536-3680