かつて日本で外交官を務(wù)めた李宗恵氏(78)は1954年、18歳の時(shí)に北京大學(xué)の東洋語(yǔ)學(xué)科に進(jìn)學(xué)し、國(guó)學(xué)の大家である季羨林氏(元東洋語(yǔ)學(xué)科主任)の指導(dǎo)の下、「國(guó)のために貢獻(xiàn)する」との考えから、當(dāng)時(shí)は將來(lái)の見(jiàn)通しが明るくなかった日本語(yǔ)専攻を選んだ。新華網(wǎng)が伝えた。
李宗恵氏とクラスメートは、中日友好に攜わる人々を通じて、日本人の文通相手と知り合った。中林鄭子さんもその1人だ。李宗恵氏は、中林さんから初めて受け取った葉書(shū)について次のように描寫(xiě)した?!感聺暏稳簸づ预?、伝統(tǒng)的な和服を著て和髪を結(jié)い、畳の上で正座をし、窓の外の美しい花火を眺めている寫(xiě)真だった。女性の表情は穏やかで、全體的にとても靜謐な感じがした」――。
面識(shí)も無(wú)い、しかもかつての敵國(guó)の人間に手紙を書(shū)くことは、李宗恵氏ら中國(guó)青年にとって複雑な感情を起こさせることだった?!付啶稳摔稀⑼ㄔUは外國(guó)人のために話をする仕事だと思っていた。日本人のために話をするなど、裏切り者だ。ましてや、手紙を書(shū)くなどすれば、敵に內(nèi)通して祖國(guó)を裏切った証拠を殘すことになるのではないかと心配した」。
しかし李宗恵氏は、「初めて中林鄭子さんからの返信を受け取った時(shí)は、うれしくて椅子から飛び上がった」という。當(dāng)時(shí)、中國(guó)の民間人は外國(guó)との交流が限られており、中日両國(guó)もまだ國(guó)交が正?;筏皮椁?、8年間の抗日戦爭(zhēng)の痛みがまだはっきりと殘っていた。當(dāng)時(shí)の中國(guó)において、日本は非常に敏感で重い話題だった。しかし、憎むべき、よく知らない隣國(guó)?日本からの返信は、李宗恵氏に外の世界へと続く窓を開(kāi)かせた。
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