「単騎、千里を走る」で本當の中國に出會う
1980年代、日本人である高倉さんが、中國において「オシャレな男性の象徴」となり、同年代を経験した人の脳裏には、そのイメージが鮮明に刻まれている。21世紀に入り、高倉さんの影響を大きく受けて映畫界に入った張蕓謀監(jiān)督のラブコールで、2人のコラボが実現(xiàn)。日中合作映畫「単騎、千里を走る(中國語題:千里走単騎)」 (2005年)が製作された。同映畫で、高倉さんは、中國の一般人の生活に溶け込み、本當の中國を知ることになった。
同映畫の撮影を通し実際の中國に出會った高倉さんについて、「NHKスペシャル 高倉健が出會った中國」(2005)を製作したNHK報道局ディレクター?大鐘良一さんは、「高倉さんは、中國語をずっと一生懸命勉強していた。そして、各シーンの撮影が終わるたびに、スタッフに中國語で『お疲れ様』と言っていた。そのうち、言葉にしなくても、周囲の人に気持ちが伝わるようになった。心と心の交流を感じた」と振り返る。
高倉さんは、「戦後60年の間に、僕を含めた日本人が大切なものを忘れてしまったと、深く感じた。中國のスタッフが僕に教えてくれたものは、日本人がとっくに忘れてしまった大切なものだった」と語っている。
中國のさまざまな顔を見た高倉さん
80歳になった高倉さんは11年、日本人の親友の招きを受け、再び中國を訪問し、ファンとの交流を楽しんだ。
「単騎、千里を走る」以降、高倉さんが主演を務(wù)めた映畫は「あなたへ」 (12年)だけで、同映畫が最後の主演作品となった。そのため、中國では高倉さんの健康狀態(tài)を心配する聲が絶えなかった。しかし、11年に中國を訪問した時には、50過ぎにしか見えない、元気な姿を見せてくれていた。
「君よ憤怒の河を渉れ」が中國で大ヒットし、大人気となった時、「単騎、千里を走る」の舞臺となった雲(yún)南省の束河村が地震の被害に遭い、その後、手紙と共にヒマワリの種を送った時、その村の人が、荒地にその種を植えて花畑を作った時、親友の招きで中國を訪問し、ファンと交流した時、死去のニュースにネットユーザーが悲しみに暮れた時、高倉さんはさまざまな中國の顔を見ることとなった。中國が高倉さんに出會い、高倉さんも本當の中國に出會った。このように、中國と高倉さんは深い関係を築いてきた。(編集KN)
「人民網(wǎng)日本語版」2014年11月19日
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