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2019年5月27日  
 

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人民網(wǎng)日本語(yǔ)版>>中日フォーカス

內(nèi)モンゴルで活躍するボランティア日本語(yǔ)教師 浦井智司さん

人民網(wǎng)日本語(yǔ)版 2015年08月27日17:19

 中國(guó)內(nèi)モンゴルへの派遣が決まった時(shí)、私はまだタイで日本語(yǔ)教師をしていましたが、その際中國(guó)の対日感情悪化のニュースに接したのを覚えています。今思えば、蒸し暑い國(guó)から寒く乾燥した地域へ、親日と言われるタイから中國(guó)への移動(dòng)は大きな挑戦だったように思います。

 そんな私が中國(guó)に來(lái)てからボランティアとして活動(dòng)した2年間を簡(jiǎn)単にまとめたいと思います。

 內(nèi)モンゴル自治區(qū)赤峰市は內(nèi)モンゴルの中でも北京に近い都市で、漢族とモンゴル民族が暮らしていて、草原もあり、砂漠もある地域です。その赤峰市の中心部にある赤峰學(xué)院へと配屬されました。草原?砂漠と言っても中心部は栄え、高層ビルも多く欲しいものは簡(jiǎn)単に手に入る環(huán)境でした。

 配屬先は2つあり、赤峰學(xué)院とその附屬中學(xué)でした。しかし、配屬直後に附屬中學(xué)擔(dān)當(dāng)の先生から「日中関係の影響から日本語(yǔ)科を廃止するかも知れない」と言われ、案の定2年目には學(xué)生は0になり、配屬先は學(xué)院一つとなりました。

 外國(guó)語(yǔ)學(xué)科のビルの前の電光掲示板には日中関係のニュースが良く流れており、どうやってここで楽しく活動(dòng)できるのか不安な日々が続きました。

 そんな中、數(shù)名の日本留學(xué)経験のある方々にしばらくの間よく食事に誘ってもらったり、買(mǎi)い物に付き合ってもらえることが相次いでありました。彼らは中國(guó)の奢る文化からか、私から一切お金を受け取ってくれませんでした。心配になって「申し訳ないので、今日は奢らせてください?!工壬辘烦訾毪?、「私が日本で留學(xué)していた時(shí)に、同じように日本人に親切にしてもらいました。ですから、いつか日本人にお返しがしたいと思っていました。」と同じような話(huà)を何度か別々の方からされました。

 ここから私の中國(guó)でのボランティア活動(dòng)の考えが変わり、活動(dòng)に熱が入るようになりました。ボランティアとはただ無(wú)給で學(xué)校に言われた授業(yè)內(nèi)容を擔(dān)當(dāng)していれば良いのではなく、家族のような見(jiàn)返りを求めない優(yōu)しさであると感じた私は、24時(shí)間365日がボランティア活動(dòng)であると考えるようになりました。

 そこで、自分に設(shè)けたルールが二つあります。一つは授業(yè)で中國(guó)語(yǔ)を使わないこと。もう一つは平日の夜だろうが、日曜の早朝だろうが學(xué)生から連絡(luò)があれば必ず答えるということです。

 一つ目の授業(yè)で中國(guó)語(yǔ)を使わないことは、日本語(yǔ)教育で言う直接話(huà)法と呼ばれるもので、環(huán)境や學(xué)生によっていろいろ意見(jiàn)が分かれますが、會(huì)話(huà)の授業(yè)を任された日本人の私が學(xué)生と中國(guó)語(yǔ)で會(huì)話(huà)していると日本人として來(lái)た意味が無(wú)い。學(xué)生は中國(guó)人教師と日本語(yǔ)で會(huì)話(huà)をしないので、私が唯一の日本語(yǔ)を使う相手である。の2點(diǎn)から考えたものです。ここで中國(guó)語(yǔ)を使えば、笑いが取れたり、もっと分かりやすく説明が出來(lái)るのに、と感じることが多かったですが、學(xué)生たちが中國(guó)語(yǔ)に頼らず頑張って日本語(yǔ)を使う姿が可愛(ài)くて仕方なく、めげずに頑張れています。

 二つ目は、ボランティアならではであると感じます。給料をもらっているからこそ勤務(wù)時(shí)間外労働を嫌がったり、仕事であると強(qiáng)く感じるからこそ休日は休みたいと感じるのであって、家族のように皆と赤峰學(xué)院と言う場(chǎng)所で一緒に生活しているんだと思えば楽でした。こちらはそう思っていても、學(xué)生たちはやはり私を教師として見(jiàn)るので、殘念ながら學(xué)生から誘われることはあまりありませんでしたが、家で餃子を作ったり、山登りをしたり、食堂でご飯を食べたり、色々なことをしました。

 この意識(shí)の変化から1年後、徐々に學(xué)生たちにも変化が出始めました。大きな変化では、ウェイシンで中國(guó)語(yǔ)を使わず話(huà)をしてくれるようになったこと、中國(guó)語(yǔ)で中國(guó)人の教師に質(zhì)問(wèn)した方が早いのにわざわざ日本語(yǔ)で文法について質(zhì)問(wèn)してくれるようになったこと、そして將來(lái)の進(jìn)路?就職相談を持ちかけられるようになったことが挙げられます。

 給料をもらっていたら、仕事と割り切ってしまって、ここまで學(xué)生たちと関わった活動(dòng)はできなかったように思います。これがボランティアの魅力なのでしょう。

 2年を通して私と関わった人は、主にもともと日本に興味のある日本語(yǔ)學(xué)科の學(xué)生や外國(guó)に興味のある學(xué)生たち、日本滯在経験がある先生たちであり、私が関わらなくても日本や日本人に対する考えは大きく変わらなかったと思います。一方、日中関係の影響から、今でも、活動(dòng)外の中國(guó)人に私は日本人です、と自己紹介するのに躊躇してしまうことも事実です。そのため、配屬先関係者以外の人々と交流?相互理解の機(jī)會(huì)を十分に持てたと言えませんが、日本人日本語(yǔ)教師ボランティアとしての活動(dòng)はすることが出來(lái)たのではないかと満足しています。

 平成25年度 青年海外協(xié)力隊(duì)員 日本語(yǔ)教師 浦井智司

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 「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2015年8月27日

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