80年代、ある日本人男性と中國人女性が南京で偶然出會い、周囲の猛反対を押し切ってめでたく結(jié)婚――。 この二人の間に生まれきたのが土屋さんだ。
南京で生を受け、幼い頃に日本に移った土屋さんは、小さい頃から日中ハーフというだけでなく、日本人と南京人のハーフということで、注目されてきたという。
-- 今まで生きてきて、日本人と南京人のハーフって僕のほかに會ったことないんです。
そして、この日本と南京というマイノリティな組み合わせがその後の土屋さんのアイデンティティ形成に大きな影響を與えた。
ただし、高校までは日本人の典型的なローカルコースを歩んできた。地元の公立幼稚園、小學校、中學校に通い、當然高校も日本で進學するつもりだった。しかし、ちょうどその頃、父親の仕事の都合で、一家で北京に移ることになった。
-- やはり義務(wù)教育というのは人間形成に大変大きな影響を與えるようで、中國語を話せるといっても、その時の僕は典型的な日本人でした。和を重んじ、人とぶつかることを避けて自分の意見もあえて言わないような。おそらく、日本での環(huán)境や雰囲気から、子供心にもあまり中國色を出さないようにしようと思っていたからかもしれません。通常の日本人以上にマニュアルタイプの日本人だった気がします。
北京では、三里屯から程近い第55中學校內(nèi)にある國際學校に通った。土屋さんは、ここで大きな洗禮を受けることになる。
-- 僕が通った國際學校はそれこそ動物園のような所で、生徒たちは好きな時間にお菓子を買いに行ったり、好きな時にご飯を食べたりと、様々な國籍の學生が本能のままに行動?主張してました。まるで無法地帯でしたね。なかなか慣れませんでした。でも、ここで如何に自分の意見を伝え、異なる思考や習慣を持つ者同士がお互いに高めあっていける関係性を築くかということを?qū)Wびました。
今や流暢な中國語、日本語、英語、北京語、南京語を使い分けて様々な國籍の人々とスムーズにコミュニケーションやビジネスを行う土屋さんの姿からは想像できない言葉だ。
しかし、どんなに言葉がうまくなっても、変わらないものがある。
-- 日本にいた時間と、中國にいた時間だとすでに中國にいた時間のほうが長くなってきました。でも、中國人からはやっぱり中國人として見てもらえない。それは、多分、僕の根底に日本人というナショナリズムがあるからなんです。それは、消したくても消せないし、崩せないものなんです。だから、日本人のナショナリズムで、中國に理解を示したい。普通の日本人ではないけれど、そういう思いが強いです。
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