敗戦前後の混亂で、家族と生き別れ、中國人に育てられた日本人が中國殘留日本人孤児となった。現(xiàn)在、東京都世田谷區(qū)で暮らす中島幼八さんはそのうちの1人だ。中島さんは、最近、自分の半生をつづった、「この生あるは――中國殘留孤児がつづる」を自費出版した。ここには、瀕死の幼い命を救った善良な中國の人々の姿が描かれている。
朝日新聞は10日、「戦後70周年、中國と日本で溫かい手を差し伸べてくれた人たちに捧げる一冊だ」とこの本を紹介した。7月には、中國でも中國語版が出版される。
東京で生まれた中島さんは、1歳のときに、両親と姉の4人で開拓団員として、日本から遠く離れた中國の東北地域に渡った。1945年、父親が軍に応召され、中島さんらは同年8月に敗戦のため避難民となった。
寒さが厳しくなるにつれ、食事にも事欠くようになった。母親は栄養(yǎng)失調(diào)で瀕死(ひんし)の狀態(tài)に陥った中島さんを生かすため、斷腸の思いで現(xiàn)地の農(nóng)村の中國人に預けた。中國人の養(yǎng)母は、中島さんのおなかをさすり、食べ物をかみ砕いて口移しに食べさせ、つきっきりで看病した。そのおかげで中島さんは徐々に元気を取り戻していった。
1946年の秋、引き揚げが決まった実母が中島さんをめぐり養(yǎng)母と爭いになった。村の役人が調(diào)停役となり、約20メートルの距離を取って2人を立たせ、中島さんをその真ん中に連れて行き、中島さん自身に選ばせることにした。中島さんは最終的に日々を共に暮らしていた養(yǎng)母のもとに駈け寄り、実母は姉と寂しそうに帰って行った。
小學校の同級生と一緒に遊び、産婆をしていた養(yǎng)母について歩いた體験、最初の養(yǎng)父が犬に噛まれて狂犬病で亡くなり、2人目の養(yǎng)父との生活、小學校を卒業(yè)してから預けられた3人目の養(yǎng)父のことなど、中島さんを育ててくれた善良な人々との生活の様子は、読む人の心をほのぼのとさせてくれる。
帰國を勧めてくれた先生と巡り合ったことで、中島さんは1958年、単身で最後の引き揚げ船に乗って日本に帰國。ずっと息子の帰りを待ちわびていた実母と再會した。この年、中島さんは16歳だった。その後、必死で日本語を習得し、日中友好協(xié)會に勤めた後、獨立し、翻訳と通訳で身を立ててきた。
2008年に実母と姉が相次いで亡くなったことをきっかけに、自身が體験した半生を記録するため、本を執(zhí)筆するという考えが浮かんだ。1年以上をかけて、中島さんはついに本を書き上げた。しかし、出版社を回ったがいい返事はもらえず、戦後70周年となる今春に自費出版した。
「読者には、中國人の心を理解してほしい。言葉で平和というだけでなく、その前に、お互いに理解し合い、友人になることが必要だと思う」と中島さん。「養(yǎng)父母は侵略者だった日本の子供である私を育ててくれた」。
中島さんは自宅近くにある有文堂書店に代理販売を依頼した。店主の中村さんは、「こんなことは初めてだけど、本屋は感動を売るために商売している。この本は、中國人の溫かさが伝わる、気持ちのこもったいい本だ」と語った。(編集MZ)
「人民網(wǎng)日本語版」2015年6月12日
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