中島さんは、この銘記すべき中日交流の心溫まる話を日本のほとんどの人が知らないと述べ、「私のような中國殘留日本人孤児は延べ3000人以上いるが、すでに亡くなった方も多く、今記録に殘しておかないと間に合わないと思った」として、「私が本に書いたのは、最もつつましい中國人の大衆(zhòng)の姿だ。自分自身も非常に貧しく苦しい生活をしていたのに、私を引き取ってくれたのは、私心からではなく、心が善良だったからだ」と語った。
中島さんは1958年、16歳の時に最後の引き揚げ船に乗って日本に帰國し、実母と姉と再會した。帰國後、日本語を懸命に勉強した中島さんは、中?高校を卒業(yè)した後、高い賃金をもらえる仕事ではなく、給料が度々未払いになるような日中友好協(xié)會の仕事についた。後に、翻訳?通訳者となり、定年まで働いた。
中島さんは、「近年、日本のメディアは常に中國を歪曲して報道し、日本人の中國に対する多くの誤解や不信を生じさせてきた」と語る。
共同通信社はかつて中國殘留日本人孤児が中國で虐待を受けていたと報道したことがある。中島さんはこれに対して強い怒りを表し、「どこでそんなことがあったと言うのか。當時我々の村には日本人孤児が15人いたが、村の人々は皆、我々に非常によくしてくれた」と語った。中島さんは過去を振り返りながら、「中國政府は一貫して軍國主義者と日本國民を區(qū)別して扱っており、我々を軍國主義者の被害者として、政策の上でも特別に面倒を見てくれた」と語った。
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