中國に渡った理由について、早川さんは、「當(dāng)時(shí)、母親の実家は地元の地主で、父親は母の元に婿入りしたので、中國に移民する必要性はまったくなかった。しかし、父親は自分の獨(dú)立した家を構(gòu)えたかったために中國に行くことに固執(zhí)した?!洪_拓団』の人々の生活は非常に苦しかった。両親は農(nóng)作業(yè)に従事し、トウモロコシやジャガイモなどを植えていた。これは當(dāng)時(shí)の開拓団の家庭の主食であり、時(shí)々米が支給された」と説明する。當(dāng)時(shí)、早川さんは現(xiàn)地の日本人向けの全寮制小學(xué)校に通っていた。毎回2時(shí)間かけて小學(xué)校に通い、2週間に1度家に帰宅した。早川さんは、「黒竜江の冬の寒さは極めて厳しく、手はしもやけだらけになった」と語る。
日本がポツダム宣言を受諾して降伏する1年前の1944年、早川さんの父親は日本軍に召集され、その後ソ連軍によってシベリアの収容所に送られた。早川さんの母親は早川さんと4人の弟妹と共に佳木斯に殘された。當(dāng)時(shí)10歳だった早川さんは地元の中國の子供たちから「日本はもうすぐくたばる」と聞かされたが、これが何を意味しているのかよくわからなかった。1945年8月15日、日本は無條件降伏し、東北地域の日本軍と開拓団の日本本土への引き揚(yáng)げが始まった。早川さん一家は汽車に乗って長春市に向かう途中で日本が戦爭に負(fù)けたことを知った。
その後、早川さん一家は避難民となり、逃避行の中で3人の弟と妹が相次いで亡くなった。殘されたのは早川さんと母親と妹の3人だった。1946年5月、日本に引き上げる準(zhǔn)備をしていた頃、母親は伝染病にかかって病院に入院し、日本に帰國する機(jī)會(huì)を失ってしまった。母親は親戚に長男である早川さんを日本に連れ帰ってもらうよう頼んだが、親戚自身も身の安全が確保できない狀態(tài)だったため連れて帰ってもらえなかった。
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