戦勝の通達(dá)は少なくなり、「特攻隊(duì)」の戦闘機(jī)が米軍艦隊(duì)に突撃したニュースも新聞に掲載された。そうした情況下にあっても、17歳の金子さんは心配こそしたが、日本の勝利を疑うことはなかった。日本が敗戦を意識し始めたのは8月初旬に広島と長崎の原爆投下を受けて以降だった。同月15日に日本は無條件降伏を宣言し、金子さんは8月末に退役したが、退役前に部隊(duì)では多くの資料や寫真が焼卻され、金子さんも戦時中の寫真などを燃やした。
「當(dāng)時は茫然としていた。家に帰ろう。いや、家はもう焼き払われてしまった」。金子さんは途方に暮れた。敗戦後、最初は悔しかったが、後に「自分は救われた。生きている。暮らしを続けなければ。とりあえず働くしかない」と考えるようになった。熟考の末、金子さんは學(xué)校に通って勉學(xué)に勵むことを決めた。
1945年11月、金子さんは試験に合格して高等學(xué)校に編入したが、かつての軍人という身分が原因で他の生徒から差別を受け、必死の思いで勉強(qiáng)して周囲の金子さんに対する見方を変えていった。高校卒業(yè)後は大學(xué)に進(jìn)學(xué)することを考えたが、日本の敗戦後、戦前の公務(wù)員は公職を解雇され、金子さんの父親は職を失い、両親に學(xué)費(fèi)を頼ることができなくなった。そこで、金子さんはアルバイトや奨學(xué)金を申請してなんとか大學(xué)卒業(yè)の日を迎えた。
大學(xué)卒業(yè)後は大手広告會社である電通に勤め、あっという間に35年が過ぎた。朝鮮戦爭の物資需要が日本経済の回復(fù)を支え、世界の経済大國としての地位を築いたが、この間、日本社會の戦爭に対する見方にも大きな変化が生じた?!杠妵髁xに支配されていた戦前とは違い、戦後の日本は、國に対する見方や黨派こそあれ、戦爭をしないという共通認(rèn)識が社會に浸透している。その後『武器輸出三原則』なども定められ、日本は最大限戦爭から離れるようになった」と金子さんは語る。自身も反戦と平和教育を受けてきた。
仕事や他の対中友好的な人々と接する中で、金子さんは次第に中國に興味を抱くようになった。1966年、金子さんは日本のメディアと共に訪中し、周恩來総理の接見を受けた。これが初の訪中となり、深い印象を殘した。金子さんは中國人民解放軍の軍服に識別のための肩章や襟章が誰一人つけられていないのを見て、これこそが理想の民主平等だと感じたという。これは當(dāng)時特有の情況ではあったが、金子さんにとってそれは中國に特別な思い入れを殘すこととなった。
70年代初め、金子さんが勤める電通に中國で生まれ育ったという日本人が就職した。この日本人の家族は戦前偽満州國で仕事をし、戦後中國に殘って新中國と共に成長した。彼の物語は金子さんの心を強(qiáng)く打った。その後中國に関心をもつ同僚らで中國語學(xué)習(xí)サークルが結(jié)成され、中國から帰國したその日本人が中國語教師となった。
![]() | ![]() |
このウェブサイトの著作権は人民日報社にあります。
掲載された記事、寫真の無斷転載を禁じます。
Tel:日本(03)3449-8257、080-5077-8156 北京 (010) 6536-8386