中國の反日デモは外部ではナショナリズムの重要なあらわれとされているが、ここ數(shù)年のデモはあまり激しくなくなっただけでなく、デモ自體も減っている。ベトナムで數(shù)カ月前に行われた反中デモは暴徒化したとまで言われながら、ベトナムがナショナリズムとされることはなく、実に不思議だ。
中國はアジアで最も開放された市場であり、中國社會(huì)は基本的に民族的精神と外國製品に対する態(tài)度とを関連づけることはない。韓國と日本の社會(huì)は経済では自國保護(hù)の意識(shí)が目立つ。中國はグローバル化の積極的な參與者であり推進(jìn)者だ。中國人は違いを尊重し、自國の要素やシンボルをなんとしてでも輸出しようとはしない。中國はさまざまな文明に対して謙虛にへりくだり、歐米社會(huì)のように強(qiáng)い優(yōu)越感をもち、西側(cè)の文明が世界を主導(dǎo)することをしっかりと堅(jiān)持することはしない。
中國の臺(tái)頭が西側(cè)諸國をあわてさせており、世界的局面におけるこのような変化に適応できないのは一種の典型的なナショナリズムだ。こうした気分は米國の対外政策にますます浸透するようになる時(shí)、世界の不安定さの中には、あまり公開されていないが、確実に存在する新たな原因がある。
いろいろなところで武力を行使してきたいくつかの國々が、20數(shù)年にわたって戦爭することなく、周辺小國との摩擦の中で慎み深く慎重な態(tài)度を取る中國のナショナリズムを非難する。このようなデタラメな論理が西側(cè)の主導(dǎo)する世論で輝きを放ち、また批判精神に満ちた西側(cè)メディアは「知らぬが仏」を決め込んでいることは、本來あるべき姿ではない。
強(qiáng)調(diào)したいのは、中國社會(huì)にはナショナリズムの感情がないわけではないということだ。これほどの大きさの社會(huì)で、あらゆることに注目する事例が存在する。だがナショナリズムが中國に與える実際の影響は限定的で、平和的発展が中國社會(huì)の普遍的な願(yuàn)いであるだけでなく、ほとんど一種の信仰となっている。中國人はウィンウィンを信じており、ゼロサム主義は多くの人が狂信的で成功するはずのないものとみなしている。
ナショナリズムは全體として時(shí)代遅れの概念とみなされるべきだ。ナショナリズムをめぐって論爭を続けるのはつまらないことだ。グローバル化の時(shí)代にあって、ナショナリズムにはたくさんの天敵がおり、支離滅裂だといえる。ナショナリズムがウィンドウに飾られた服のようなものだとすれば、サイズがそろわず、品物がないことはしょっちゅうだ。ナショナリズムを誇大化するようなことはしてはならない。(編集KS)
「人民網(wǎng)日本語版」2014年11月30日
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