毎日、食事をし、ベッドの上で休み、窓から街の景色を眺める。これが、中國吉林省長春市に住む崔志栄さん(93)の普段の生活だ。中國新聞網(wǎng)が伝えた。
吉林省長春市平陽街の「中日友好樓」に住んでいる崔さんは、中國殘留日本人孤児の養(yǎng)母だ。當(dāng)時養(yǎng)女として引き取った勝目尋美さんが日本で亡くなってからすでに十?dāng)?shù)年が経つ。しかし、この特殊な縁はまだ途切れてはいない。崔さんが今一番気にかけているのは、勝目さんの2人の子供、司斌さんと司靜さんのことだ。
長春市は、かつて日本が作り上げた傀儡(かいらい)國家偽満州國の首都?新京だった地だ。1945年、日本が戦爭に負(fù)けると、東北地域の戦場で戦っていた日本兵やそこで暮らしていた日本人らが一斉に日本に引き揚げて行ったが、この引揚の混亂の中、數(shù)多くの日本人孤児が中國の地に取り殘された。子供たちの悲慘な狀況を見て忍びなく思った中國人がこうした孤児たちを養(yǎng)育した。
長春市で生まれ育った勝目さんは長春市で結(jié)婚して子供を産んだ。1972年に中日國交回復(fù)が実現(xiàn)すると、日本政府の招きを受けた中國殘留日本人孤児が肉親を捜すため相次いで帰國していった。崔さんも、勝目さんが帰國して肉親を探すことに同意した。
そして、1985年、勝目さんは18歳の司斌さんと16歳の司靜さんを連れて日本に帰國した。しかし、10年後、勝目さんは病気のため日本で亡くなった。
崔さんの息子の妻、屠愛群さんは、「日本に帰國してからも、2人の孫は何度も義母に會いに來た。孫たちは子供のころから義母と一緒に暮らしていたので、毎回孫が帰るたびに、義母も非常に喜んで、盡きることなく話をしていた」と思い出を語った。
「孫たちは最近、戻ってきていない。でも、春節(jié)(舊正月)などの祝祭日には、電話がある」と屠さんが語ると、崔さんは「2人とも結(jié)婚して、忙しく、時間がない」と言葉を継いだ。
90歳を超える崔さんは、今はもう自由に動き回ることはできず、家族も崔さんと一緒のときは基本的に日本の孫のことについて觸れないようにしているという?!噶x母は心臓があまり良くないので、孫の話題を出すことで、心配をかけさせたくない」と屠さんは語った。
第2次世界大戦が終わって70年が経ち、中國殘留日本人孤児を育てた中國の養(yǎng)父母たちの多くも亡くなっている。日本の笠貫尚章氏の寄付によって建てられた殘留孤児を育てた養(yǎng)父母の専用アパート「中日友好樓」にも、かつて中國殘留孤児を育てた中國人の養(yǎng)父母29人が住んでいたが、今は崔さん1人だけになってしまった。
家族が遠(yuǎn)く離れた日本の孫のことをなるべく觸れないようにしても、崔さんの心にはいつも日本の孫への思いがある?!笇Oを見に行きたいが、年老いて、もう動けない」と崔さんは語った。
(編集MZ)
「人民網(wǎng)日本語版」2015年4月21日
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