降伏したなら日本にすぐ帰れるだろうと思っていた高橋だが、その後の事情はそううまくは運ばなかった。1946年2月、高橋はほかの日本軍の戦爭捕虜とともに、ソ連赤軍に何組かに分けられ、船に積み込まれた。捕虜たちは日本に行く船だと思っていたが、東ではなく北に向かい、ウラジオストク付近の港に著いた。
日本の捕虜たちはその後、極寒のシベリアに連れて行かれ、伐採や炭鉱、鉄道工事などの労働をすることとなった。シベリアの環(huán)境は非常に厳しく、冬の気溫は零下30度を下回る。そんな中で労働を強制されるので苦しみは増した?!干伽筏扦獾·堡毪葰椁欷?。食べ物もひどい。一日300グラムの黒パンだ。スープは塩を振ったお湯で、中には1、2枚の葉が入っているだけだ」?!溉粽撙味啶^労と栄養(yǎng)失調(diào)でシベリアで死んだ」
ソ連によってシベリアに連れて行かれた日本人捕虜の一部は1947年から1949年まで次々と日本に送り返された。高橋は、シベリア抑留の最も長かったグループの一人だ。1950年、建國したばかりの中華人民共和國は、當(dāng)時國際社會が制定していた戦犯処理規(guī)定にのっとり、ソ連政府から引き渡される日本人戦爭捕虜の受け入れを始めた。同年7月、高橋哲郎を含む1000人近くの日本人戦爭捕虜は、B級?C級戦犯としてシベリアから遼寧省の撫順戦犯管理所に移された。
▽中國政府の教育で目覚める
撫順戦犯管理所での6年を振り返ると、高橋は萬感の思いにとらわれるという。あのような巨大な変化は、それを経験した人でないとわからない。管理所に入ったばかりの頃は、特別なことはなされなかった。日本の降伏から5年が経っていたが、高橋を含む戦爭捕虜たちは日本が発動した戦爭の侵略性をまだ認(rèn)識していなかった。だが管理所に入れられた人々は、一般の軍人であっても憲兵、警察であっても、自分が中國でした悪事を知っており、死刑になるのではと心配していた。
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