多くの人の目に、外交官は、華々しいと同時(shí)に謎めいた職業(yè)と映る。めまぐるしく変化する國際的な舞臺で活躍し、國交の重任を背負(fù)う。だが元駐重慶日本総領(lǐng)事で中國通の大ベテランである瀬野清水氏によれば、外交官にとっては、普通の人々の中に入っていくことも重要な一面となる。瀬野氏は、出會った人すべてと誠意をもって交流することを仕事の理念としてきた。
瀬野氏は、北京や上海、広州、香港、重慶などの地で25年にわたって外交に従事し、駐重慶日本総領(lǐng)事を最後に2012年に退官した。瀬野氏は、中國の急速な発展を目にすると同時(shí)に、中日関係の浮き沈みも経験してきた。第2次大戦終結(jié)から70周年となる2015年は、日本と中日関係にとって非常に重要な一年となった。瀬野氏はこれを機(jī)に、日本と中日関係の未來の行方について自らの見方を語った。
▽25年の巨大な変化 中國の発展「嬉しい」
1949年生まれの瀬野氏は、高校時(shí)代から中國にすこぶる興味を持っていた。この興味がもとで、學(xué)校の図書館である日、戦前の日本の軍隊(duì)の中國侵略を記録した図録をめくった。図録の中の白黒寫真は瀬野少年にとってはショックだった。そこで日本の軍隊(duì)が中國でいったい何をしたのか、中國人は日本人をいかに考えているのかを考え始めた。その時(shí)から、瀬野氏は、いつか中國にわたり、この疑問を解き明かそうと決めていた。
1975年、瀬野氏は日本?外務(wù)省に入省し、翌年には國費(fèi)留學(xué)生として中國にわたり、北京語言學(xué)院(現(xiàn)在の北京語言大學(xué))や遼寧大學(xué)などで中國語を?qū)Wんだ。この時(shí)から、瀬野氏は中國と解けることのない縁を持つこととなり、中國での25年近い外交官生涯を始めた。
中國での仕事と暮らしの日々は、瀬野氏にとって忘れがたい記憶である?!钢袊诵肖韦闲·丹ろ暏椁螇簸坤盲?。1976年に(香港経由で)深セン河をわたって中國大陸に初めて足を踏み入れた時(shí)は感動した」。この年は普通の年ではなかった。中國は、唐山大地震という巨大な災(zāi)難に見まわれ、周恩來と朱徳、毛沢東という3人の國家指導(dǎo)者が相次いでこの世を去った。中國が巨大な変化を迎えた年でもあった。文化大革命の十年の災(zāi)難はこの年に終わったのである。
瀬野氏は語る?!缸苑证现袊撬陌胧兰o(jì)を過ごした。中國が文化大革命から改革開放、さらには世界第二の経済大國となるまでの巨大な変遷と成果をこの目で見た。自分がこのような経験を持つことができたことを幸運(yùn)と思う――。中國は私の第二の故郷だ。中國が少しずつ豊かに強(qiáng)くなるのを見て、自分のことのように嬉しい」
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