それからまもなくして2人はめでたく結(jié)婚。著付け師やピアノ教師としてフリーで活動する五十嵐さんと、自宅で整體院を開業(yè)した張さんは、2人の子供にも恵まれた。そんな平穏な2人の生活が5年を過ぎた頃、突然張さんが北京に戻りたいと言い出した。
――正直、母親と一緒にやっていた著付けの仕事も軌道に乗り、評判も高まってきた頃でしたし、下の子供もまだ1歳だったので、まだいいだろうと2年ほど先延ばしにしました。でも、上の子が5歳になったときに、夫がやはり北京に戻りたいと言い出したので、このタイミングを逃すと教育的にも中途半端になるからと決意しました。
中國に來た五十嵐さんは、夫の実家で義両親と同居することになった。しかし間もなくすると夫が仕事のため湖南省に行ってしまい、殘された五十嵐さんと子供たち、義両親との共同生活が始まった。慣れない環(huán)境の中、大きなストレスが五十嵐さんを襲った。
――言葉はしゃべれない、言っていることが全くわからない、いつも「は?」って言われるしで、義両親とはまったくコミュニケーションが取れませんでした。しかも私だけでなく、孫である子供たちも中國語を理解しないので、義両親もすごくイライラしただろうと思います。
來てすぐに、義両親や夫の強い希望もあり、夫の姉が勤める鼓樓の幼稚園に上の娘を入園させたのですが、中國では子供の送り迎えは必須で、毎日朝晩送り迎えをしなければなりません。家から幼稚園まで少なくとも1時間半はかかります。しかも娘は、幼稚園の有名なダンス班に選ばれました。そうなると、著名な監(jiān)督の都合に合わせて練習が行われるので、終わりの時間も未定、いつ何時呼び出されるかわからず、家に戻ることもできません。毎日のようにダンスの練習や公演の巡業(yè)などで遅くなり、夜家に帰るのが深夜の10時、11時ということもざらでした。
また、その年の冬が11月から雪が降るような何十年ぶりかの記録的な寒さで、それも身にこたえて、「何のために北京に來たんだろう」って落ち込んで泣いたりして、この頃が一番つらかったですね。
そんな生活を7、8カ月は続けたのですが、送り迎えだけでも疲れ果て、體力的にも精神的にもつらくなって限界を迎えていました。そんな折、夫が仕事先から戻ってきたので、幼稚園に歩いていける距離の胡同(中國の路地)に狹い部屋を借りて一家4人で暮らし始めました。
鼓樓の故同での暮らしは、部屋は古い上に狹く、冬は寒かったが、優(yōu)しい人々に囲まれ、それなりに居心地のいいものだっという。しかし、言葉がしゃべれないという問題は、幼い子供にも同様にふりかかっていた。
――幼稚園では娘は本當に外國人扱いでしたね、子供も、先生が言っていることがよく理解できなかったようで、先生の話もしょっちゅう聞き間違えて、そのたびに先生に確認の電話をしたりしてました。
特に5歳まで日本で育った娘は日本で保育園に通っていましたし、自分のことを日本人だと思っているので、この頃はしょっちゅう「どうして北京に來たの?」と聞いてました。「パパが北京に戻りたかったからだよ」と答えると、「パパだけ北京に帰ればよかったじゃん」と言ったりとか。一方、下の子は3歳までしか日本にいないので、ほとんど記憶はなくて、今では日本は遊びにいくところだと思っています。たった2年の差でも、全然違うんです。
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