宮崎さんはその後北京で、気功師になるという思いをより一層強(qiáng)くする出來(lái)事を體験した。
――最初に中國(guó)に行ってから3か月後、2回目の気功研修のために中國(guó)に訪れました。実は、その前に靭帯を切る怪我をしてしまい、病院で手術(shù)をしました。病院からはリハビリが必要だと言われたのですが、どうしても中國(guó)に行きたかったので、ギプスを本來(lái)の半分の期間ではずして、中國(guó)に向かいました。
中國(guó)に行くと、まだ足が腫れていたのを見(jiàn)た中國(guó)の気功の先生が治療してくれました。先生は、足を見(jiàn)て、針とかも使わず、ツボをポンポンと軽く觸れるだけだったのですが、翌日には腫れが全部ひいて、すごく楽になったんです。まるで奇跡が起こったような感じで、何が起こっているのか、訳がわかりませんでした。そのときに、気功の治療時(shí)間の短さと効果の速さに驚き、気功は醫(yī)學(xué)なんだと、目に見(jiàn)えない現(xiàn)象にも理論があるんだということを體験しました。このとき、自分が気功の効果を身をもって體験したからこそ、その後の人生を中國(guó)に捧げることになったんだと思います。
最初は2年の計(jì)畫で中國(guó)に留學(xué)したという宮崎さんだが、中國(guó)滯在暦は今年ですでに19年目を迎えた。
――當(dāng)初は、語(yǔ)學(xué)の授業(yè)と気功の先生に師事するというので2年間を考えていました。本當(dāng)は軍の施設(shè)の気功センターに住み込みを、と考えていたのですが、言葉のできない外國(guó)人には厳しいと言われ、2年間語(yǔ)學(xué)の勉強(qiáng)をしながら通いで學(xué)ぶという形を取りました。でも、語(yǔ)學(xué)の勉強(qiáng)を1年半ぐらいしたときに、大學(xué)の本科生の話が出たので、試しに受けてみたら受かり、自動(dòng)的に2年が4年になりました。
そこから19年というのは、正直私自身もそうですが、親も計(jì)算してなかったと思います。父親も中國(guó)は環(huán)境が厳しいし、育ってきた環(huán)境もまるで違うし、いつかこんなところは嫌だといって戻ってくるだろうと安心していたようですが、後に計(jì)算が狂ったと言ってました。
こんなに長(zhǎng)く中國(guó)に滯在することになった理由について宮崎さんは次のように語(yǔ)った。
―― 一言でいうと、學(xué)ぶべきことが多すぎるというか、次々と學(xué)びたいことが出てきたということですね。もちろん、これは結(jié)果的に見(jiàn)ての言葉なので、そのときそのときは、色々決斷に迫られることもあったのですが。
中國(guó)に來(lái)て6年ぐらいの時(shí)、ちょうど大學(xué)を卒業(yè)したころ、23歳のときにひとつの決斷を迫られました。北京には、社會(huì)人を體験した日本人の留學(xué)生も、駐在員の人もいる。いくら言葉がしゃべられるようになっても、経験がないと、負(fù)けてしまうなと思いました。そのときに、とりあえず目標(biāo)を10年中國(guó)に滯在しようと決めたんです。滯在のための言い訳を探すのではなく、とにかく10年。何もなくても10年、ここで自分の強(qiáng)みを見(jiàn)つけて生きて行くと。
というのも、大學(xué)を卒業(yè)して、気功の実習(xí)にも通いましたが、まだ自分の中では圧倒的な自分の強(qiáng)みがなかったんです。このまま帰ると、自分に対して納得できないと思いました。やりきったという感覚がなく、當(dāng)初頑張って生きていこうと思った熱意がまだ燃焼しつくされてなかったんですね。だから、大學(xué)などの守られた生活ではなくて、スタート時(shí)點(diǎn)に戻った気持ちで、新たに何かを探し、何も変わらなかったら、帰國(guó)してできることをしようと思いました。おそらくそれが2回目の節(jié)目だったと思います。
その後、気功を勉強(qiáng)する中で出會(huì)い、今や宮崎さんの生活に欠かすことのできない重要なものとなったのが、お茶だった。
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